ミッドナイト文庫|読めないリスクを、誰が引き受けるのか──不確実性を分け合う世界のしくみ
まえがき
夜の森の図書館の、いちばん奥の棚に、この本はあった。表紙は色あせていて、印字された文字は、ところどころ消えかかっている。
読めないリスクを、誰が引き受けるのか
頁をひらくと、最初の頁に、ひとことだけ書かれていた。
── 災いそのものを、完全に消し去ることはできない。
けれど人は、それに備え、被害を小さくするだけではなかった。
それでも残る読めなさを、費用に置き換えたり、別の引き受け手へ移したり、分け合ったりするしくみを育ててきた。
引き受けた誰かは、その重さに応じた見返りを求めて、その役割を担う。
著者の名はわからない。おそらく、長く実務の森を歩いてきた、一人の鑑定士であろうと思う。
土地を歩き、建物を見て、価格へ向かう手がかりを拾いながら、価格の背後に流れている「読めないリスク」というものを、静かに見つめてきた人だ。
この本で歩くのは、保険や金利や証券化そのものの話ではない。
その奥に流れている、「読めないリスクを誰が引き受けるのか」というひとつの流れである。
そして、その流れは、不動産の価格が立ち上がる場所にも、静かにつながっている。
夜の森のなかを、ゆっくり歩くつもりで、読み進めていただければと思う。
ミッドナイト文庫 編集部
第一章 読めないものを、どう数にあらわすか
未来のかたち
未来というものは、いつも、はっきりとしたかたちを持たない。明日の景気も、十年後の街の姿も、目の前のテナントがいつまで賃料を払い続けるのかも、本当のところは、誰にも分からない。
それでも、人は、いまの時点で何かを決めなければならない。家を買う。事業を始める。土地を借りる。建物を貸す。不動産の価格をいくらと考えるか。その「いま」の決定の中には、いつも、まだ訪れていない未来が、静かに織り込まれている。
本書ではこの、未来の「読めない部分」を、ひとまず「不確実性」と呼んでおく。なお本書では、堅い言葉の「不確実性」と、やわらかい言い方の「読めなさ」を、同じものを指す言葉として使う。表題にある「読めないリスク」も、ほぼ同じ意味だと思っていただいてよい。不確実性のすべてを、はっきりと言葉や数字にできるわけではない。それでも市場は、そうした読みにくさの中でも、ひとつの価格や利回りの水準を、静かに形づくっていく。
重さの違うもの
同じ「読めなさ」でも、その重みは一様ではない。
ある市場参加者にとっては大きな意味を持つ変化が、別の市場参加者にとってはそれほど重く受けとめられないこともある。
どの読めなさを重く見るかは、その不動産と、それを求める市場参加者によって異なる。
つまり、読めなさの重さは、それを受けとめる立場によって変わる。不動産を評価する世界では、価格を動かすさまざまな要因のことを「価格形成要因」と呼ぶが、これもまったく同じ性格を持っている。
この価格形成要因を、一般的要因(社会や経済全体の要因)、地域要因(不動産の属する地域の要因)、個別的要因(その不動産そのものの要因)という三つの層に分けて整理する。これは、「ある変動要因が、その不動産の価格にどう関わってくるか」を、市場参加者の立場から丁寧にほどいていく作業でもある。これらの言葉はこの先もときおり顔を出すが、いまは「読めなさにも層がある」とだけ覚えておけば十分である。
ある人にとっては取るに足らない揺れが、別の人にとっては命取りになる。だからこそ、世の中の仕組みは、自然と、「重い読めなさは、それを比較的軽く扱えるしくみの中で誰かに引き受けてもらう」という方向に、少しずつかたちを変えてきた。
この本でこれから歩いていくのは、読めなさを分け合うしくみである。
第二章 保険という、最初の知恵
みんなで少しずつ持つ
古くから、人は、火事や水害や、思いがけぬ事故のことを恐れてきた。自分の家が、自分の船が、自分の畑が、ある日突然失われるかもしれない。その恐れは、ひとり静かに抱えこむには、あまりにも重い。
そこで、人びとは、ある工夫を始めた。同じような恐れを抱える人たちが、少しずつお金を出し合って、不運に見舞われた誰かを助ける、というしくみである。
これが、保険のはじまりだと言われている。ひとりでは持ちきれない重い読めなさを、多くの人で、ほんの少しずつ持ち合うかたちに変える。それは、世界が最初に手にした「読めなさの分配」の知恵だった。
大数の法則がはたらくところ
なぜ、ひとりでは重いものが、みんなで持つと軽くなるのか。そこには、「大数の法則」と呼ばれる、静かな性質がはたらいている。
一軒の家に火事が起きるかどうかは、まったく読めない。だが、一万軒の家を集めて眺めると、その年に火事に遭う家の割合は、おおよそ一定の幅に収まっていく。個別では激しく揺れる「読めなさ」も、数を集めると、驚くほど落ち着いた姿を見せはじめる。
保険は、この性質を利用している。一人ひとりの未来は読めなくても、全体としての未来は、ある程度読めるようになる。その読めるようになった部分を担保にして、個々の人びとが負っていた重さを、共同の池に移していく。
不動産の世界でも、損害保険や地震保険は、価格や利回りの背景に、当たり前のように存在している。建物が失われたときの読めなさを、共同の池が少し引き受けてくれる。その前提があるからこそ、その不動産の価値や、そこから生まれる純収益の見通しが、ある程度の安定を持ちうる。
保険とは、読めなさを「数を集めることで見通せるようにする」しくみである。
別の見方をすれば、保険とは、読めないリスクを、読める費用へと置き換えるしくみでもある。
法則の届かないところ
ただし、保険が頼りにする大数の法則は、それぞれの読めなさが、ある程度独立して起きるときに、もっとも力を発揮する。地震や、広域の水害や、世界全体を覆うような感染症のように、たくさんの被害が同じ時期に重なってしまう読めなさは、ひとつの保険会社の池では受けとめきれないことがある。
そこで、保険会社のさらに上に立つ「再保険」という別の層が控え、地震保険のように国そのものが後ろに座って引き受けるしくみが用意されてきた。ただし、大数の法則が力を発揮できる読めなさばかりではない。
だからこそ、保険のかたちもまた、いくつもの層に分かれている。
第三章 固定と変動のあいだで
いつ約束するか
保険は、おおぜいの人で読めなさを少しずつ持ち合うしくみだった。ここからは、もっと小さな場面――お金を貸す人と借りる人という、二人のあいだ――に目を移してみよう。そこでも問いは変わらない。将来の読めなさを、どちらが引き受けるのか、である。お金を借りるとき、人は金利という名の代金を払う。そこで必ず出会うのが、固定金利と変動金利という二つの呼び名である。
固定金利は、契約のときに、将来の利息のかたちをほぼ決めてしまう。変動金利は、市場の動きに合わせて、将来の利息を少しずつ書き換えていく。この違いを「どちらが得か」という問いに置きかえて語られることが多いが、森の奥から眺めると、それはあまり本質的な問いではない。
本質は、こうである。将来の金利の「読めなさ」を、誰が引き受けるか。そこに尽きる。
引き受け手が違うだけ
固定金利の契約では、借り手の毎期の支払額に関する金利変動の読めなさは、主として貸し手の側、あるいはその背後にいる、読めなさを和らげるための取引(ヘッジ取引)や投資家へと移される。金利が大きく上がったときも、貸し手は、当初の約束された利息しか受け取れない。そのかわりに、貸し手は、金利を交換し合う取引(スワップ)や、債券の発行、あるいはのちの第五章で見る証券化といった手段を使って、この読めなさをさらに別の引き受け手のもとへ送り出すこともある。いまはこれらの名前を覚える必要はない。共通しているのは、どれも「読めなさを、別の誰かへ渡すための道具」だという一点である。
一方、借り手の側にも、まったく読めなさが残らないわけではない。金利が下がっていく局面では、高い固定金利を払い続けることになるという別の読めなさが、そっと残っている。固定金利が変動金利より少し高めに見えることが多いのは、その埋め合わせの一部でもある。
変動金利では、その読めなさは、ほとんど借り手が抱えている。金利が上がれば、毎月の支払いはふえていく。そのかわり、契約時点の利率は固定よりも低く見えることが多い。
つまり、固定と変動の違いは、商品としての優劣ではなく、「読めない金利の動きを、契約でどちらの側に置くか」という分配の問題にすぎない。
不動産投資の世界で長期の借入を行うとき、どこに固定を置き、どこに変動を置くかは、その不動産が生む純収益の安定性と、いつまで保有するつもりかによって、慎重に選ばれていく。純収益の安定性が高いほど、変動を抱える余地があるとも言えるし、出口までの時間が長いほど、固定で先に約束しておきたいとも言える。
固定と変動を分けるのは、得か損か、ではない。未来の読めなさを、契約のどちら側に置くか、である。
鑑定評価の場面では、個別の借入条件そのものをそのまま価格へ反映するわけではない。けれども、市場参加者が想定している資金調達の環境や、金融市場の利回りの水準は、還元利回りや割引率の判断のなかへ、しずかに影を落としていく。だからこそ、固定か変動かという呼び名そのものよりも、「将来のどの読めなさが、誰のところに残っているのか」を見つめる目が、静かに求められる。
第四章 利回りに込められた読み
安全とそうでないものの距離
利回りという言葉は、不動産の世界では、いたるところに顔を出す。だが、その姿は思っているよりも、ずっと静かで、ずっと多くを語っている。
いま、ほとんど読めなさを持たない、安全な資産があるとする。たとえば、国が長い時間をかけて返してくれるとされる債券のようなものだ。その利回りを、ひとまず「無リスク利回り」と呼ぶ。これは、お金が一定の期間拘束される対価として支払われる、最低限の重さである。もっとも、本当に読めなさがゼロの資産はない。あくまで「最も読めなさが小さいもの」を、ものさしの原点として置く、という約束ごとだと考えてほしい。
一方、不動産の利回りは、それよりも高い。なぜ高いか。そこに、読めなさが、いくつも織り込まれているからである。テナントが入れ替わる読めなさ。賃料が変わる読めなさ。建物がいたむ読めなさ。そして、いつか売るときの価格が読めない、という読めなさ。
リスクプレミアムという呼び名
無リスク利回りと、ある資産の利回りとの差を、人びとはリスクプレミアムと呼んできた。プレミアムとは、読めなさを引き受けてくれる人へのささやかな謝礼のようなものだ。
概念的には、こう書くこともできる。
不動産の利回り = 無リスク利回り + その不動産の読めなさへのプレミアム
ここから先に出てくる「還元利回り」と「割引率」は、どちらも将来の収益を、価格時点の価格に置きなおすための利回りである。ひとまずは、いま見た利回りという大きな言葉の、不動産の評価における呼び名なのだと思っていただいてよい。
現実の還元利回りや割引率は、不動産の流動性、管理の手間、税負担や費用の負担、そして売却時の最終還元利回りとの整合性など、いくつもの要素が静かに折り重なっている。
利回りという数字は、そうしたいくつもの色を、ひとつの濃さに調合した結果でもある。
鑑定評価で用いられる還元利回りや割引率も、この性格を共有している。還元利回りには、対象となる不動産が抱える読めなさが、複数のレイヤーで折り込まれていく。地域の読めなさ、テナントの読めなさ、契約の残期間。それらを丹念に読みほどき、最終的にひとつの数字に静かに沈めていく作業。それが、利回りを決めるという仕事である。
だから、利回りの数字だけを取り出して、「高いから良い」「低いから悪い」と語ることはむずかしい。高い利回りには、それだけの読めなさが含まれているし、低い利回りには、その読めなさが市場の中で比較的軽く受けとめられている「静けさ」が映っている。
利回りとは、いくつもの読めなさをひとつの数字に映したものである。
その数字の奥には、いつも、誰かが引き受けている読めなさの影がある。
読めないリスクは、ただ移されるだけではない。
それを引き受ける人には、その重さに応じた対価が支払われる。
利回りとは、その対価を数字であらわしたもののひとつでもある。
第五章 証券化という分け方
ひとつの建物を、いくつもの権利に分ける
利回りは、読めなさを一つの数字に映したものだった。では、その読めなさそのものを、いくつかに切り分けて、別々の人に持ってもらうことはできないだろうか。そう考えたところから生まれたのが、これから見る証券化のしくみである。大きな建物を、ひとりで持つことは、容易ではない。資金の量だけが理由ではない。そこから生まれる純収益の「読めなさ」を、ひとりで抱え込むことが、重すぎるのだ。
そこで考えられた工夫が、証券化と呼ばれるしくみである。ひとつの不動産から生まれる将来のキャッシュフローを、異なる性格を持ついくつかの権利に分けて、別々の投資家に持ってもらう。
建物そのものは、ひとつのままだ。しかし、その背後にある「読めなさ」は、複数の権利に切り分けられていく。
優先と劣後
切り分けの基本は、「先に分配を受ける権利」と「あとで分配を受ける権利」を作ることである。
純収益から、まず優先して分配を受ける権利がある。これを「シニア」とも、「優先部分」とも呼ぶ。そこにいる人たちは、分配が受けられない可能性は低いが、受け取る利回りは低い。
その下に、中ほどの権利がある(「メザニン」と呼ばれることもある)。さらにその下に、「劣後」と呼ばれる権利がある。劣後の人たちは、うまくいかないときには、最も損失を背負う立場にある。そのかわりに、より高い利回りを求める立場にある。
優先と劣後とは、価値の上下を表すものではない。分配を受ける順番と、損失を引き受ける順番の違いである。読めなさを、誰がどの順番で引き受けるかをあらかじめ決める静かな並びだと言ってもよい。
これは、保険における大数の法則とは別の知恵である。保険は、主としてたくさんの読めなさを「横に」集めて分け合う。証券化は、まず複数の資産や、ひとつの不動産から生まれるキャッシュフローを束ねたうえで、分配の順番という「縦の層」を作る。横に束ね、縦に切る。証券化は、その二つの方向の組み合わせとして眺めることができる。
証券化の場面では、ひとつの不動産から生まれる収益が、いくつかの権利に分けられ、それぞれの権利を持つ投資家へ、決められた順番と条件で分配されていく。
建物そのものは、ひとつのままだ。だが、その収益を受け取る立場は、いくつもの権利へ分かれていく。
第六章 投資家という、引き受け手
お金にも性格がある
権利を切り分けても、その一つひとつは、最後には誰かが持たなければならない。その「持つ人」が投資家である。では、どんなお金が、どの権利を引き受けるのだろうか。世の中には、さまざまな性格のお金がある。年金として、長い時間をかけて積み立てられたお金。短いあいだだけ預けられた、流動性の高いお金。ある事業のために集められた、目的のはっきりしたお金。
これらは、ただの金額の違いではない。それぞれが、どれくらいの読めなさを、どれくらいの時間にわたって引き受けられるか、という「性格」を持っている。
長く待てるお金は、長く読めない不動産も抱えていける。短いあいだしか待てないお金は、長く読めない資産を抱えるのが難しい。投資家とは、お金の性格に合わせて、どの読めなさを引き受けるかを選ぶ人たちでもある。
エクイティとデット
不動産にかかわるお金は、大きく分けて二つの顔を持つ。出資(エクイティ)と、借入(デット)である。
デットは、貸したお金として、決められた利息と元本の返済を受ける立場である。順調に返済される限り、毎期受け取る金額の読めなさは小さい。そのかわり、何かが起きても、原則として約束以上のものは受け取れない。
エクイティは、不動産そのものを保有する立場に立つ。利息を受け取るのではなく、最終的に手元に残った純収益と、出口での売却益を引き受ける。順調に進めばその果実は大きいが、状況が変化したときには、その影響を最初に受ける層でもある。
先ほどの優先と劣後の話と、これは深いところでつながっている。デットは、いわばより優先に近い位置から、読めなさを浅く引き受け、エクイティは、デットよりも深く、読めなさを引き受ける立場にある。
投資家とは、自分が引き受けられる読めなさの範囲に応じて、投資先を選ぶ人たちでもある。
読めなさは、誰かのところへ移される。だが、それだけで、読めなさそのものが消えるわけではない。
第七章 不動産価格の背景にある、分配の形
収益還元と利回りの中に潜むもの
ここまで、保険、固定金利、変動金利、証券化、投資家、利回りを、それぞれのかたちで見てきた。
これらは、ばらばらの制度ではなく、「読めない部分を、誰が、どのように、どの順番で引き受けるか」という同じ問いに、それぞれのかたちで答えてきた、ということが見えてくる。
そして、不動産の価格——ことに収益価格——には、それらすべての影が、薄くしかし確かに重なっている。
純収益の中には、空室や賃料下落といった読めなさが、すでに織り込まれている。還元利回りや割引率の中には、金利の読めなさ、市場の読めなさ、テナントの読めなさが、いくつもの層になって沈んでいる。
そして、その読めなさの一部は、保険や資金調達、投資のしくみを通じて、目に見えないところで少しずつ引き受けられている。
収益還元法の利回りは、読めなさの目録のようなものである。そこには、いま、対象不動産に、どれだけの読めなさが織り込まれているのかが、静かな数字となって書きこまれている。
二重に数えないこと
ここで、ひとつ気をつけておきたいことがある。空室や賃料下落といった読めなさを、すでにキャッシュフローの中に丁寧に織り込んでいるのなら、同じ読めなさを利回りの側にも厚く積み増してしまえば、ふたつの場所で同じ重さを数えることになる。
逆に、利回りに含めた読めなさを、キャッシュフローでも繰り返し差し引けば、価格は不必要に細っていく。鑑定評価が静かに気を配るのは、この「どこに、どれだけ織り込んだか」を見失わず、二重に数えないという姿勢でもある。
鑑定評価が見ているもの
不動産鑑定評価基準は、価格形成要因を、一般的要因、地域要因、個別的要因という三つの層で整理する。これは、いいかえれば、「どの場所から来る読めなさが、その不動産にどのように作用しているか」を、丁寧に分けて読むための地図でもある。
そのうえで、最有効使用という考え方が置かれている。最有効使用とは、ただ収益が最も大きくなる空想ではない。現実の社会経済情勢のもとで、客観的に見て、良識と通常の使用能力を持つ者による、合理的かつ合法的な最高最善の使用のことを言う。未来であるから、当然、そこにも読めなさはある。鑑定評価は、その読めなさを利回りや収益の見通しのなかに映しながら、価格という一点に静かに織り込んでいく。
もうひとつ、鑑定評価が大事にするものとして、「価格時点」という考え方がある。価格形成要因は、ゆっくりと、ときには急に、姿を変えていく。だからこそ、その価格がいつの時点での判断なのかをはっきりさせておかないと、価格は地に足のつかないものになってしまう。「いまの時点で決める」という本書の主題は、この価格時点という考え方と、しずかに重なっている。
だからこそ、鑑定評価で示される価格は、ひとつの結論であると同時に、その背後で動いている「読めなさの分配の地図」でもある。その地図のなかには、ここまで見てきた読めなさの分配のしくみが、さまざまなかたちで重なっている。
地図を読みなおすたびに、なぜこの価格なのか、という問いに、別の角度から答えていくことができる。
終章 静かな引き受けの連なり
世界は、利益だけを生み出しているわけではない。
その利益の背後には、誰かが引き受けている読めないリスクがある。
この利益は、どのリスクを引き受けた結果なのか。
その問いは、保険にも、金利にも、証券化にも、そして不動産の価格にも、静かにつながっている。
森を歩きながら、ひとつのことが、しずかに見えてくる。
災いそのものを、完全に消し去ることはできない。
けれど、人は、その災いが起きにくいように備え、起きたときの被害を小さくし、それでも残る読めなさを、費用に置き換えたり、誰かに移したり、分け合ったりしてきた。
保険は、横の方向に分けるしくみであった。固定金利と変動金利は、将来の金利の読めなさを、契約のどちら側が引き受けるかを定めるしくみであった。
証券化は、横に束ね、縦の順番に分けるしくみであった。投資家は、お金の性格に合わせて、読めなさを引き受ける人たちであった。そして利回りは、その分け方の結果を、ひとつの数字として呼びなおす名前であった。
不動産の価格は、その連なりのいちばん表側にある。だが、その奥には、いくつもの引き受けが、見えないかたちで層をなしている。鑑定評価とは、その重なりを意識しながら、価格時点におけるひとつの価格を求めていく仕事でもある。
読めないものは、これからも残るだろう。ただ、それをどう分け合うか、というしくみだけは、ゆっくりと、しかし確かに、次の時代に引き継がれていく。
夜が深くなった。森のなかは、まだ少し風が吹いている。本を閉じる前に、もういちどだけ、最初の頁に戻ってみてほしい。そこに書かれているのは、はじめに読んだときよりも、少しだけ違う意味を持っているかもしれない。
あとがき
この本は、おそらく一人の鑑定士が残した手記をもとに編まれたものだろう。
具体的な著者の名は、もう確かめようがない。原稿は、いくつもの時代を経て、誰かの手から誰かの手へ、控えめに渡されてきたものらしい。
編者として心がけたのは、次のことだった。制度や数式を、それ自体としてだけ説明することはしない。そのかわりに、それらが世の中で果たしている役割──とりわけ、「読めなさを、誰がどう引き受けているのか」という役割──を、静かに浮かび上がらせる。
したがって本書は、「固定金利か、変動金利か」「保険に入るべきか、否か」「証券化された不動産は安全か、危ないか」といった、よく聞かれる二択の問いに、直接の答えを与える本ではない。
そのかわり、これらの問いに自分なりに向き合おうとする読み手に、問いの背後にある「分配のかたち」を見せようとした。答えを選ぶのは、いつでも、その人自身であってよい。ただ、その選択の足もとには、ここで歩いた森が広がっている、ということを、覚えておいてもらえれば、それで十分だと思う。
なお、本書で用いた用語は、不動産鑑定評価基準および関連する公表資料に沿うように努めた。制度や運用は、これからも更新されていく。実務でご活用の際は、必ず最新の原典をご確認いただきたい。
ミッドナイト文庫 編集部
この本の奥にある原典
この本は、以下の原典をもとに整理しています。制度や運用は更新されるため、実務で利用する際は最新の原典をご確認ください。
・不動産鑑定評価基準(国土交通省) https://www.mlit.go.jp/common/001204083.pdf
・不動産鑑定評価基準運用上の留意事項(国土交通省) https://www.mlit.go.jp/common/001204077.pdf
・価格等調査ガイドライン(国土交通省) https://www.mlit.go.jp/common/001204075.pdf
・法令・不動産鑑定評価基準等(国土交通省) https://www.mlit.go.jp/totikensangyo/totikensangyo_tk4_000024.html
・国土交通省 不動産鑑定評価ポータルサイト https://www.mlit.go.jp/totikensangyo/totikensangyo_tk4_000023.html
・公益社団法人 日本不動産鑑定士協会連合会 公開資料(法令・基準ガイドライン) https://jarea.org/public_doc/laws_guidelines.html
※ リンク先は、執筆時点で確認できたものを掲載しています。
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