なぜ、正常価格という考え方が必要なのか
── 前提とする市場の条件から考える ──
まえがき
この本は、ある古い手記をもとにしている。
夜の森の図書館の、いちばん奥の棚。背の文字もかすれかけた一冊に、それは挟まれていた。記したのは、昔の不動産鑑定士であったらしい。名前は残っていない。ただ、実務の森を長く歩いた人だということだけが、文章の歩幅からうかがえる。
手記は、ひとつの問いからはじまっていた。
「正常価格とは、いったい何の前に立っている言葉なのだろうか。」
不動産の価格には、いくつもの種類がある。そのなかで「正常価格」は、もっとも基本に置かれる価格だ。けれど、基本であるがゆえに、その意味は意外と語られない。空気のように当たり前のものとして扱われ、なぜそれが必要なのかは、問われないまま通り過ぎられていく。
この昔の鑑定士は、そこで立ち止まった。なぜ、わざわざ「正常」という言葉をつけた価格を、私たちは用意したのだろうか。現実に取引されている価格が、すでにそこにあるというのに。
手記には、森の生きものたちの小さな話がいくつも挟まれていた。フクロウ、リス、川辺の生きものたち。どれも、価格というものの背後にある「条件」を、そっと照らすための寓話のようだった。
先に、言葉の出どころをひとつ示しておきたい。不動産鑑定評価基準は、正常価格を次のように定めている。
「正常価格とは、市場性を有する不動産について、現実の社会経済情勢の下で合理的と考えられる条件を満たす市場で形成されるであろう市場価値を表示する適正な価格をいう。」
少しかたい言いまわしだが、この本で照らしていくのは、結局このひと文のなかにある「合理的と考えられる条件を満たす市場」とは何か、という一点である。なお、ここでいう「適正な価格」とは、道徳的に「正しい値段」という意味ではない。鑑定評価という制度が定めた、市場価値をとらえるための考え方の上での「適正」である。この点は、はじめに念を押しておきたい。
この本は、その手記を読みやすく整理し直したものである。専門の言葉はできるだけやさしくほどき、けれど中身は薄めないように努めた。正確な定義や条件については、巻末に記した原典――とりわけ不動産鑑定評価基準――を確かめていただきたい。この本は、その入り口に立つための、静かな案内にすぎない。
※ なお、「古い手記」「鑑定士」「森の生きものたち」、および本文中の手記からの引用は、いずれも解説のための創作である。制度の内容そのものは原典に基づいているが、登場人物や手記の文章は、考え方を伝えるために用意した物語であることをお断りしておく。
では、夜の森へ。
第一章 値段は、どこから来るのか
リスは、どんぐりを一つ拾った。
そのどんぐりに、いくらの値段をつければよいだろう。リスは考えた。隣の木の下では、別のリスは、どんぐり一つをクルミ三つと交換していた。川の向こうでは、クルミ五つと交換したという噂もある。いったい、どれが「本当の値段」なのだろう。
昔の鑑定士は、この場面を手記の最初に置いている。
私たちは、ふだん「値段」というものを、対象そのものに貼られた性質だと思いがちだ。このどんぐりには、もともと「クルミ三つ分の価値」が備わっている――そんなふうに。けれど、よく見ると、値段はどんぐりの中にはない。それは、リスとリスのあいだ、つまり取引の関係のなかに生まれている。
同じどんぐりでも、飢えた冬の朝には高く、実りの秋には安い。買い手が一匹しかいなければ安く、十匹が競えば高い。値段は、ものの中にあるのではなく、ものを取り囲む状況の中から立ちあがってくる。
ここに、ひとつの困りごとが生まれる。
もし値段が状況によってこれほど揺れるのなら、「このどんぐりの値段はいくらですか」という問いには、本当は答えられないことになる。いつの、どんな状況での話ですか、と聞き返すしかない。雨の日の値段、祭りの日の値段、誰かが売り急いだ日の値段。
どれも実際についた値段ではあるけれど、どれを「そのどんぐりの値段」と呼べばよいのか、決め手がない。
不動産も、これとよく似ている。
土地や建物は、一つひとつが違う。隣り合った土地ですら、形も、日当たりも、道路への接し方も異なる。しかも、めったに取引されない。株式のように毎日値がつくわけではないから、「いまの値段」を市場に尋ねても、はっきりした返事は返ってこないことが多い。
それでも、私たちは不動産の値段を知りたい。相続や遺産分割のとき、融資の担保を見るとき、売り買いを決めるとき。そのつど「この不動産は、いくらと考えるのが適切か」を、誰かが示さなければならない。
※ ひとつ補っておくと、税金の場面では、必ずしも鑑定評価の正常価格をそのまま用いるわけではない。たとえば相続税や贈与税では、土地は路線価方式または倍率方式、家屋は固定資産税評価額をもとに評価するのが原則である。法令が定める評価の物差しが別に用意されている、ということだ。この本が扱うのは、あくまで鑑定評価の世界での「正常価格」である。
ここで、昔の鑑定士は静かに問いを置く。
実際についた値段が、そのまま使えないのだとしたら――売り急ぎの値段や、事情のある値段が混じっているのだとしたら――私たちは、いったい何を「基準の値段」と呼べばよいのだろうか。
その答えとして用意されたのが、「正常価格」という考え方だった。
正常価格とは、ひとことで言えば、「ゆがみのない状況であれば、このくらいで取引されるはずだ」という値段のことだ。実際についた一つひとつの値段ではなく、それらの背後にあるべき、整った状況を想定したうえでの値段である。
つまり正常価格は、現実の値段そのものではない。現実の値段を測るための、ものさしのほうなのだ。
このことを、もう少していねいに見ていこう。ものさしであるなら、その目盛りがどう刻まれているかが大切になる。正常価格の目盛りは、「どんな市場を想定するか」という条件によって刻まれている。次の章では、その条件をのぞいてみたい。
第二章 整った市場という、約束ごと
フクロウは、森のいちばん高い枝に住んでいた。
夜ごと、森のあちこちで交わされる取引を見おろしている。だれが何を、いくらで交換したか。フクロウはそれを、ただ眺めているのではない。「いまの取引は、整った場で行われたか」を見ているのだ。
整った場、とは何か。昔の鑑定士は、フクロウの目を借りて、それをいくつかの条件として書きとめている。これは、不動産鑑定評価基準が「正常価格」を定義するときに置いている、市場の条件と重なっている。正確な言いまわしは基準そのものに譲るが、その心はおおむね、次のようなものだ。
第一に、売り手も買い手も、自分の意思でその場に来ていること。だれかに強いられたり、追い立てられたりしていない。市場に入るのも、出るのも自由である。
第二に、特別な動機で急いでいないこと。「今日じゅうに売らないと困る」「この一軒をどうしても手に入れたい」――そうした売り急ぎ・買い進みがないこと。
第三に、売り手も買い手も、その取引を成立させるために通常必要となる知識や情報を、それぞれが得ていること。ここで大切なのは、相手と寸分たがわず同じことを知っている、という意味ではない、という点だ。基準が求めているのは、各参加者が「ふつうに調べればわかる程度のこと」をきちんと踏まえて判断している、という状態である。完全に等しい情報ではなく、判断に足りるだけの情報、と言いかえてもよい。
第四に、その不動産を、いちばん活きる使い方を前提に値踏みしていること。畑として最も活きる土地を、無理に物置として安く見たりしない。鑑定の言葉では、これを最有効使用という。
第五に、買い手が、ふつうに資金を用意できる立場にあること。そして取引のかたちそのものが、誰かを縛ったり、急がせたりする特別なものでないこと。
さらに、その不動産が、相当の期間、きちんと市場に公開されていること。こっそり一晩で売り抜けたのではなく、買い手が現れるだけの時間、開かれた場に置かれていたこと。
これらを並べてみると、一つの像が浮かんでくる。
正常価格が想定しているのは、「自由で、急がず、必要なことはきちんと知っていて、開かれた」市場だ。そこでは、参加者がそれぞれに自分の利益を冷静に考え、十分な情報のもとで、納得して値を決める。
ここで大切なのは、これらが「現実はこうなっている」という観察ではなく、「こういう場であればこそ、適正な値段が立つ」という約束ごとだ、ということである。
昔の鑑定士は、ここに線を一本引いている。
現実の森は、いつもこんなに整ってはいない。売り急ぐリスもいれば、相手の足もとを見るキツネもいる。情報はかたより、取引は急かされ、最も活きる使い方は見落とされる。だからこそ、いったん「整った場ならどうか」という想定を立て、それを基準にして現実を測る。
整った市場という約束ごとは、現実から目をそらすためのものではない。むしろ逆だ。現実のどこがゆがんでいるのかを見るために、ゆがみのない目盛りを先に決めておく。それが、正常価格の役割なのである。
これらの条件のなかでも、とりわけ静かに、けれど深く効いてくるものがふたつある。ひとつは「その不動産を、いちばん活きる使い方で見る」という条件。もうひとつは「それぞれが、必要な情報を得ている」という条件である。次の二つの章で、この二つを順にのぞいていこう。まずは、使い方の話から。
第三章 いちばん活きる使い方 ――冷静な参加者と最有効使用
森のはずれに、一つの空き地があった。
ある者は、そこを物置にちょうどよいと見た。ある者は、日当たりがよいから畑にしたいと言った。また別の者は、川に近いから水車を回せると考えた。同じ一つの土地が、見る者の目によって、まるで違う値打ちに見える。
さて、この土地の値段を考えるとき、どの使い方を前提にすればよいだろう。
物置として見れば、安い。畑として見れば、それより高い。水車として見れば、もっと高いかもしれない。
昔の鑑定士は、ここで第二章の条件のひとつを思い出させる。整った市場では、参加者はその不動産を「いちばん活きる使い方」を前提に値踏みする、というあの約束だ。鑑定の言葉では、これを最有効使用という。
なぜ、いちばん活きる使い方を前提にするのか。
それは、整った市場では、参加者が冷静に、自分の利益を最大にしようと考えるからだ。水車を回せば最も大きな実りが得られる土地を、わざわざ物置の値段で買う者はいない。誰かが物置としてしか使えない安い値をつけたなら、別の誰かが「いや、ここは水車に向く」と気づき、もう少し高い値を出すだろう。冷静な参加者たちが競い合うなかで、値段は自然と、いちばん活きる使い方に見合った水準へ引き上げられていく。
だから、最有効使用を前提とすることは、特別に高望みをしているのではない。整った市場で冷静な参加者たちが行きつくであろう、いわば落ち着き先を見ているにすぎない。
ここで、ひとつ注意がいる、と鑑定士は書く。
いちばん活きる使い方とは、「あらゆる夢を詰めこんだ、最大の値段」のことではない。それは、現実に実現できる範囲で、かつ、その土地の性質や周りの環境、法のきまりに照らして無理のない使い方のなかで、最も値打ちのあるものを指す。空に城を建てる話ではない。あくまで地に足のついた、けれど最も活きる使い方である。
この条件が崩れると、どうなるか。
たとえば、ある売り手が、土地の本当の活かし方に気づいていなかったとする。物置程度にしか考えず、安い値で手放してしまう。買い手のほうは、それが水車に向く土地だと知っていた。すると、ここでも値段はゆがむ。売り手が冷静に最有効使用を見ていれば結ばれたはずの値より、ずっと低いところで取引が成立してしまう。
おもしろいのは、この「使い方を見そこなう」というゆがみが、次の章で扱う「情報のかたより」と、地続きだということだ。売り手が活かし方に気づけなかったのは、多くの場合、情報が足りなかったからである。
整った市場の条件は、こうしてたがいに手をつないでいる。冷静な参加者であること、いちばん活きる使い方を見ること、必要な情報を得ていること――どれかひとつが欠けると、ほかの条件も揺らぎ、値段は本来あるべき水準から離れていく。
では、その情報がかたよるとき、市場には何が起きるのか。これが、もっとも根の深い崩れ方である。次の章で、川辺の市をのぞいてみよう。
第四章 みえない傷のはなし ――情報がかたよるとき
川辺の市で、こんなことがあったという。
カワウソたちは、貝を売り買いしていた。貝は殻に包まれているから、外からは中身が見えない。身のつまった上等な貝もあれば、痩せた貝、ときには傷んだ貝も混じっている。
売り手は、自分の貝の中身を知っている。けれど買い手には、それが見えない。
さて、買い手はいくらで買えばよいだろう。上等な貝なら高く払ってよい。けれど、目の前の貝が上等かどうかは分からない。そこで買い手は、こう考える。「どれが当たりか分からないのだから、平均くらいの値段しか払えない」。
ここから、静かな崩れがはじまる。
上等な貝を持つ売り手は、平均の値段では割に合わない。「この値段で手放すくらいなら、売らずにおこう」。そうして、上等な貝は市から引いていく。市に残るのは、痩せた貝、傷んだ貝――買い手が恐れていた、まさにそれらだ。
買い手はやがて気づく。「この市の貝は、どうも質が悪い」。だから、さらに値を下げる。すると、中くらいの貝も引いていく。残るのは、もっと悪い貝。値はまた下がる……。
こうして、悪いものが良いものを市から追い出していき、しまいには、まともな取引そのものが成り立たなくなる。
この話は、寓話のかたちをとっているが、もとは経済学のよく知られた考え方である。情報が売り手と買い手のあいだで偏っていること――これを情報の非対称性という。そして、見分けのつかない中古品の市場で質の悪いものばかりが残っていく現象は、レモン市場と呼ばれてきた。経済学者ジョージ・アカロフが論文「レモンの市場」で描いた、外見ではよし悪しの分からない品物の市場で何が起きるかを論じた古典的な話だ。
昔の鑑定士は、この話を前章の条件に重ねている。ただし、重ね方には少し注意がいる、とも書いている。
整った市場の第三の条件は、「売り手も買い手も、取引に通常必要となる知識や情報を、それぞれが得ていること」だった。基準は、両者が完全に同じ情報を持つことまでを求めているわけではない。けれど、片方だけが肝心なことを知っていて、もう片方はそれを知るすべもない――そこまで情報がかたよると、「通常必要な情報を得たうえで判断する」という前提そのものが立ちゆかなくなる。カワウソの市で崩れたのは、まさにそこだ。
だからレモン市場の話は、第三の条件をそのまま言いかえたものではない。むしろ、「なぜ情報という条件が大切なのか」を、経済学の側から照らしてくれる、関連した視点として読むのがよい。情報のかたよりは、一軒一軒の値段を狂わせるだけでなく、市場そのものを痩せさせていく――そのことを、レモン市場ははっきりと教えてくれる。
不動産は、まさに「中身の見えにくい貝」に似ている。
土地の下に何が埋まっているか。建物の壁の奥がどうなっているか。近くにどんな計画があるのか。これらは、外から眺めただけでは分からない。売り手だけが知っていて、買い手が知らないことは、いくらでもある。
だからこそ、不動産の世界では、この「みえない傷」を減らすための工夫が積み重ねられてきた。調査をし、資料を確かめ、状況を開示する。ここで、鑑定評価の役割をひとつ正しておきたい、と鑑定士は書く。鑑定士が調査や資料の収集・分析に手間をかけるのは、まず何より、対象不動産の価値を適切に判断するためである。鑑定士が調べたからといって、それだけで現実の市場の情報格差そのものが消えるわけではない。鑑定評価がしているのは、むしろ、「もし合理的な市場参加者が、通常必要な情報を得たうえで判断したなら、いくらと考えるか」を、評価のなかで再現してみせることだ。整った市場の条件を、現実そのものに押しつけるのではなく、評価という作業のなかに引き受けている、と言ってもよい。
カワウソの市にも、やがて知恵が芽ばえた、と手記は続ける。上等な貝を持つ売り手が、「中身を割って見せてもよい」と申し出るようになったのだ。あるいは、信用のある古参のカワウソが「この貝は確かだ」と太鼓判を押す。すると買い手は、見えない中身を信じる手がかりを得て、上等な貝にきちんと高い値を払えるようになる。良い品が、ふたたび市に戻ってくる。
これは、情報のかたよりに対して、持っている側がすすんで「しるし」を差し出す工夫である。経済学では、こうしたしるしをシグナルと呼ぶ。マイケル・スペンスらが論じた考え方で、保証、格付け、来歴の開示――どれも、見えないものを見えるようにして、取引を成り立たせる働きをしている。不動産でいえば、調査報告や各種の図面、履歴の開示が、その役目を担う。情報のかたよりは、放っておけば市場を痩せさせるが、しるしを積み重ねることで、ある程度まで埋め戻すことができる。
正常価格は、「参加者がそれぞれ必要な情報を得ている市場」を前提にしている。その前提は、ただ机上で仮定されているのではなく、こうした地道な手当てによって、現実の側からも少しずつ支えられている。条件は、想定であると同時に、市場が近づいていくべき目印でもあるのだ。
情報の偏りは、市場をゆっくりと痩せさせる崩れ方だった。けれど、条件が崩れるとき、もっと急で、目に見える嵐が起きることもある。次の章では、森がざわめく、そのときの話をしよう。
第五章 森がざわめくとき ――条件が失われた市場
ある年の秋、森に噂が流れた。
「来年の冬は、かつてないほど厳しいらしい。」
噂の出どころは、だれも知らない。けれど、いちど流れた噂は止まらなかった。リスたちは、われ先にとどんぐりを買いはじめた。「いま買わなければ、もう手に入らない」。値段は、みるみる吊りあがっていく。値が上がると、それを見たほかのリスもあわてる。「やはり買っておかなければ」。買い進みが、買い進みを呼ぶ。
どんぐりそのものは、去年と変わらない。木々の実りも、ふつうの年と変わらなかった。それでも値段だけが、ひとり歩きしていった。
これは、第二章の条件のうち、「特別な動機で急いでいないこと」が崩れた市場の姿である。売り急ぎや買い進みがないこと――その約束が破れたとき、値段は対象の中身から切り離されて、群れの気分のほうへ引きずられていく。
逆のことも起きる。
別の年、森に別の噂が流れた。「この谷の木は、もう実をつけない」。今度はだれもが売りに走った。手放すなら早いほうがいい。買い手は足もとを見る。値は底なしに沈んでいった。やはり、どんぐりそのものは変わっていないのに。
昔の鑑定士は、こうした嵐の市場を前にして、こう書いている。
――このとき市についた値段は、たしかに「実際の値段」である。だれかが、たしかにその値で買い、その値で売った。けれど、これをそのまま「正常価格」と呼ぶわけにはいかない。なぜなら、それは整った場でついた値ではなく、ある一匹の売り急ぎや、ある一匹の買い進みといった、特別な事情の上についた値だからだ。
ここで、ひとつ大事な区別をしておかなければならない、と鑑定士は筆を止める。
正常価格は、「個々の取引にまぎれこんだ、特別な事情」は取りのぞく。売り急ぎ、買い進み、情報のかたより、取引の縛り――そうした一回かぎりのゆがみは、ものさしの目盛りから外す。けれど、それは「市場全体の動き」まで無視してよい、という意味ではない。
噂をきっかけにしていても、もし森じゅうの需給そのものが本当に変わり、参加者がみな冷静に判断したうえでなお値が動いたのなら、それはもう一匹の事情ではなく、市場そのものの新しい姿である。正常価格は、その新しい姿のほうは受け止める。正常価格が映すのは、あくまで「その時点の、現実の社会経済情勢」だからだ。
ここに、正常価格という考え方のありがたみが、はっきり見えてくる。
もし「実際についた値段」だけしか手もとになければ、私たちは、一匹の売り急ぎがつけた安値も、群れの興奮がつけた高値も、おしなべて「市場の答え」として受け取るほかなくなる。それでは、相続のときも、融資のときも、よりどころにならない。
正常価格は、こうした個々の事情から一歩退いた場所に立っている。
それは、「もし急ぎがなく、参加者が自由で冷静で、それぞれ必要な情報を得ていたなら、この不動産はいまいくらで取引されるはずか」を考える。嵐の最中に、一匹の事情でついた値を、そのまま写し取るのではない。個々のゆがみをいったん脇に置いて、その時点の整った場での値を見定める。
ここで、ひとつ誤解を解いておきたい、と鑑定士は念を押している。
正常価格は、「現実を無視した、机上の理想の値段」ではない。市場が高揚しているとき、それより低い値を出すための言い訳でもないし、市場が冷えているとき、無理に高い値を支えるための道具でもない。正常価格は、市場が上を向いていればその水準を、下を向いていればその水準を、きちんと映す。映さないのは、あくまで「その一回の取引にだけくっついた、特別な事情」のほうだ。
正常価格が見ているのは、あくまで現実の市場である。ただし、その現実から、一回かぎりの事情によるゆがみ――特別な動機、情報の偏り、取引の縛り――を取りのぞいたうえでの姿を見ている。現実の社会経済情勢のもとで、合理的と考えられる条件を満たす市場で成り立つであろう値。それが正常価格だ。
言いかえれば、正常価格は「現実離れ」しているのではなく、「個々の取引のゆがみ離れ」しているのである。市場全体の温度からは、離れていない。
森がざわめくときこそ、その一匹の事情と、市場そのものの動きとを、ていねいに分けて見る。ざわめきのうち、何が一回かぎりの泡で、何が本当の潮の変化なのかを見さだめようとする。その姿勢のことを、私たちは正常価格と呼んでいるのだ。
では、その正常価格と、目の前で実際に動いている現実の市場とは、どんな関係に立つのだろうか。最後に、その距離の測り方を見ていこう。
第六章 ものさしと、森の現実
フクロウは、一本のものさしを持っていた。
それは、整った市場の条件から削り出された、まっすぐなものさしだ。フクロウは、これを使って、森でついた一つひとつの値段を測る。
ただし、と手記は注意を促す。このものさしは、いちど作ったらいつまでも同じ、という代物ではない。森全体の実りや、冬の見通しが変われば、ものさしの目盛りそのものも引き直される。正常価格が映すのは「その時点の現実の社会経済情勢」だから、時がたてば、ものさしの刻みも静かに動いていく。それでも、同じ時点・同じ市場の条件にそろえてしまえば、このものさしはぶれずに、一つひとつの取引を測り比べることができる。フクロウのものさしの「まっすぐさ」とは、永遠に動かないということではなく、同じ条件にそろえれば物差しとして信頼できる、という意味なのだ。
ある取引の値が、ものさしより高かったとする。フクロウは、それだけで「まちがいだ」とは言わない。まず、こう問う。「なぜ、高いのだろう」。買い進みがあったのか。買い手が、その土地にどうしても欲しい特別な事情を持っていたのか。あるいは、市場全体が、確かな理由で上を向いているのか。
逆に、ものさしより低い値がついたなら、こう問う。「なぜ、安いのだろう」。売り急ぎか。情報の偏りか。それとも、その不動産自体に、まだ知られていない弱みがあるのか。
ここで分かるのは、正常価格というものさしは、現実の値段を否定するためにあるのではない、ということだ。ものさしは、現実の値段を「読む」ためにある。
現実の値段は、たくさんの事情を混ぜこんだ、にごった水のようなものだ。そのままでは、何がどれだけ効いているのか分からない。正常価格という澄んだ水を一本横に置いてはじめて、「この値段は、整った水準より、これだけ高い・低い。その差は、こういう事情から来ているらしい」と読み解ける。
昔の鑑定士は、両者の関係を、こんなふうに書いている。
――正常価格と現実の市場は、対立しているのではない。正常価格は現実の市場を土台にして立っている。現実に取引された事例を集め、現実の賃料や利回りを調べ、現実の社会経済情勢を踏まえる。けれど、集めた現実をそのまま鵜呑みにはしない。一つひとつの事例に、特別な事情がまぎれていないかを確かめ、ゆがみがあれば、整った場での姿へと正していく。こうして、現実から汲みあげ、個々のゆがみを正したところに、正常価格は結ばれる。
だから正常価格は、現実から遠いどころか、現実をいちばん深く見ようとする態度から生まれている。
そして、もうひとつ。
ものさしがあるからこそ、私たちは「ものさしから外れた値段」にも、きちんと向き合える。世の中には、正常価格には収まらない値段がたしかに存在する。鑑定評価は、依頼の目的に応じて、正常価格のほかにいくつかの価格の考え方を用意している。手記は、それを取り違えないように、と念を押している。
たとえば、隣り合う土地を一つに併せることで生まれる、その当事者だけにとっての上乗せ分。こうした、市場が特定の者に限られる場面で成立する適正な価格は、限定価格と呼ばれる。
借地権者がその土地を地主から買う場合なども、これにあたる。
また、市場性はあるのだけれど、法令などにもとづく特別な目的のもとで、正常価格の前提とする条件を満たさないまま求める価格もある。たとえば、民事再生法のもとで早期の売却を前提に評価するような場合だ。これは特定価格と呼ばれる。
さらに、文化財のように、そもそも一般の市場では取引されない不動産について、その利用の現況などを前提に経済価値を表す価格もある。これは特殊価格と呼ばれる。これだけは、性質が少しちがう。市場性そのものがない以上、「正常価格から、これだけ離れている」という距離としては語れない。正常価格を原点にした地図には、もともと載らない種類の値なのだ。
こうして見ると、「正常価格に収まらない値段」とひとくくりにはできない。限定価格や特定価格は、たしかに正常価格を基準にして「ここから、こういう事情で離れている」と語れる。けれど特殊価格は、その地図の外にある。基準があるから語れるものと、基準ではそもそも測れないものとが、まじっている――そのことを、手記はていねいに区別している。
フクロウのものさしは、一本きりに見えて、じつは三つの方向から削り出されている、と手記は付け加えている。ひとつは、似た取引の事例を集めて見比べる方向。ひとつは、その不動産が生む実りから逆に値を読む方向。ひとつは、いま新たにこしらえるとしたらいくらかかるかという方向。森を歩いた鑑定士たちは、この三つの方向から同じ土地を測り、得られた値をつき合わせて、ひとつのものさしへ束ねてきた。
ただし、と手記はすぐに釘を刺す。この三つの値は、いつも同じ一点にぴたりと集まる、というものではない。三つの方向は、それぞれ別の側面を、別の資料にもとづいて見ている。だから、得られる値が食いちがうことは、めずらしくない。食いちがい自体は、まちがいでも見落としでもない。大切なのは、値がちがったときに、それぞれの値が何を映しているのか、どの資料にどんな限界があるのかを確かめ、対象の土地にとっていちばん説得力のある値はどれかを、見さだめて調整していくことだ。三つの道は、同じ「整った市場」という頂をめざしてはいるが、ちがう道から登る以上、頂の手前で景色がちがって見えるのは、当たり前のことなのである。
ものさしが三方向から確かめられているということは、それだけ、現実をていねいに読もうとしているということだ。正常価格は、ひとつの思いつきでぽんと置かれた数ではない。いくつもの現実の手がかりを、整った市場という約束ごとに照らして編み直した、いわば現実の最良の読みなのである。
正常価格は、こうして二つの仕事をしている。
ひとつは、現実の値段を読むためのものさしであること。もうひとつは、限定価格や特定価格といった、特別な事情をもった価格たちが、そこからの距離として自分を語れるようにする、原点であること。
森の値段は、これからも揺れつづける。噂に吊りあがり、不安に沈み、情報の偏りにゆがむ。それでもフクロウのものさしは、夜の高い枝の上で、その時々の森にきちんと合わせられながら、まっすぐにそこにある。
なぜ、正常価格という考え方が必要なのか。
それは、揺れる森のなかで、測るための一本のものさしを持っておくためだ。そのものさしがあるから、私たちは値段に振りまわされるのではなく、値段を読むことができる。ゆがみを、ゆがみとして名指すことができる。そして、整った場であればこのくらい、という静かな見当を、嵐のなかでも手放さずにいられる。
あとがき
手記の最後の頁には、こう書かれていた。
「正常という言葉は、つめたく響くかもしれない。けれど、これは現実を切り捨てる言葉ではない。むしろ、現実をていねいに見ようとする者だけが、必要とする言葉だ。」
正常価格は、現実の市場から離れた理想ではなかった。それは、現実の市場を土台にしながら、そこに混じる一回かぎりのゆがみ――売り急ぎ、買い進み、情報の偏り、取引の縛り――を見分けて、整えたところに結ばれる値だった。市場そのものの動きは映しつつ、個々の取引の特別な事情だけを取りのぞく。だからこそ、現実を測るものさしになりうる。
ひと言にまとめるなら、こうなるだろう。正常価格とは、揺れない値段のことではない。価格時点の現実の市場を踏まえながら、個々の取引の特殊な事情を取りのぞき、合理的な市場の条件にそろえて判断した市場価値のことである。
この本では、フクロウやリス、カワウソたちの小さな話を借りて、正常価格が前提とする市場の条件を、ひとつずつ照らしてきた。けれど、これはあくまで入り口の案内である。条件の正確な言いまわしや、価格の種類の厳密な区別については、不動産鑑定評価基準そのものにあたっていただきたい。寓話は、扉をひらくための鍵にすぎない。扉の奥にある部屋は、原典のなかにある。
夜の森の図書館では、こうした静かな実務書が、少しずつ棚に並べられている。価格の背景にある考え方を、計算式の手前から読み直していく本たちだ。この一冊も、その棚の片隅に置かれることになる。
いつか実務の森を歩くだれかが、嵐の値段の前で立ちどまったとき、ふと、まっすぐなものさしのことを思い出してくれたなら。この昔の鑑定士の手記を整理した甲斐も、あったというものだ。
ミッドナイト文庫
この本の奥にある原典
この本は、以下の原典をもとに整理しています。制度や運用は更新されるため、実務で利用する際は最新の原典をご確認ください。
不動産鑑定評価基準(国土交通省) https://www.mlit.go.jp/common/001204083.pdf
不動産鑑定評価基準運用上の留意事項(国土交通省) https://www.mlit.go.jp/common/001204077.pdf
国土交通省 不動産鑑定評価関連資料(法令・不動産鑑定評価基準等) https://www.mlit.go.jp/totikensangyo/totikensangyo_tk4_000024.html
相続税・贈与税における土地家屋の評価について(国税庁・タックスアンサー No.4602) https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/sozoku/4602.htm
また、第四章で触れた経済学の考え方については、次の古典を参照しています。
George A. Akerlof, “The Market for ‘Lemons’: Quality Uncertainty and the Market Mechanism,” Quarterly Journal of Economics, 84(3), 1970.(情報の非対称性・レモン市場)
A. Michael Spence, “Job Market Signaling,” Quarterly Journal of Economics, 87(3), 1973.(シグナリング) なお、アカロフ、スペンス、スティグリッツの三氏は、情報の非対称性に関する研究により2001年のノーベル経済学賞を受賞している。
※ リンク先は、執筆時点で確認できたものを掲載しています。
※ この本文の執筆にあたり実際に参考にしたのは、上記の不動産鑑定評価基準および同運用上の留意事項です。国土交通省の関連資料ページおよび国税庁のページは、原典・関連制度の所在として掲げています。
※ 本文中の「古い手記」「鑑定士」および森の生きものたちの物語と引用は、考え方をやさしく伝えるための創作です。制度の内容そのものは、上記の原典に基づいています。